写真家・濱田英明ってどんな人?

こんにちは。
リユース事業の支援ツール、meseeです。

このマガジンでは「リユースをもっと楽しむ」をコンセプトに、色々なカルチャーを「リユース」の視点から楽しめる情報を発信しています。

今回ご紹介するのは、写真家「濱田英明」さん。

透明感のある作風で、日常的な風景や子供達などを撮影。

その作品を見た時に感じる被写体との微妙な距離感は、濱田英明という写真家が濱田英明たる要素であるといえます。

この記事ではそんな写真家の濱田英明さんにフォーカスして、活躍や人となりをご紹介していきます。

今回は、

という形で、フォトグラファーの人となりを通して、人物や作品の魅力を伝えられるお話しをご紹介していきます。

ぜひご覧ください。

写真家、濱田英明とは?

写真を見るほどに、人となりを知るほどに、好きになってしまうフォトグラファーがいる。

濱田英明。

彼の名前を知らなくても、どこかで彼の写真を見かけたことはあると思う。
彼の写真はSNSを通じて、話題となり、35歳でWebデザイナーからフリーのフォトグラファーに転身した。

湊あす香さん写真 引用genic-web.com

インスタのフォロワー数は、46万人(2022年12月現在)。
今や世界中からオファーがくる。

きっかけは、Flickr(写真の共有を目的としたコミュニティウェブサイト)に投稿した子どもの写真だった。
彼自身、フォトグラファーになろうとは思っていなかった。

アメリカのライフスタイル雑誌「KINFOLK」、「FRAME」(オランダ)、「THE BIG ISSUE TAIWAN」(台湾)などの雑誌に掲載される。2012年12月写真集「Haru and Mina」を台湾で出版。

代表的な作品は、NHK朝の連続ドラマ小説「おちょやん」のメインポスター写真。
ニベアクリーム、LOHACOなどの広告写真。秦基博、いきものがかりなどのアーティスト写真。
最近では、満島ひかり、佐藤健主演のNetflix「First Love 初恋」のメインビジュアルを手がけている。


フォトグラファーになるつもりはなかった

濱田英明さん 引用pinkoi.com

「無理やり何者かになろうとは、しなくてもいいのかもしれない」

濱田英明の人生を辿っていくとそんな風に思えてくる。
彼は、学校で専門的に写真の勉強をしたことはなく、スタジオでのアシスタント経験もない。
コンペや写真賞にさえ応募したことはなかった。写真で食べていくことは、想像できなかったという。

つまりおおよその人が、思い描くフォトグラファーになる道筋を彼は歩んではこなかった。

写真の下積みをしてこなかったことを時に後ろめたく思うことがある。
けれど、そういう自分だからこそ、撮れるものがあると彼は言う。

そして、名を知られるようになり、世界中からオファーが来るようになった今も、「今出来ることが、たまたま写真だっただけ」と語り、写真の仕事に対して、彼はそれほどこだわりがない。

いつでも、他の表現に代わっても、構わないと思っている。それは、写真を軽視しているからでも、真摯に向き合っていないからでもなく、「自分を表現する方法」のひとつと考えているからだ。
 
1977年に兵庫県淡路島に生まれ、関西大学文学部を卒業した彼が、最初に興味を持ったのは、音楽だった。プロのミュージシャンを目指し、バンド活動をしていた。

バンド活動をするために、シフト制、私服で働ける仕事を探し、東急ハンズで働くようになる。
そこでは、販売促進を任されていた。

そこで値札やポップ、看板を作り、デザインを学んだ。パソコンひとつで出来るなんて、これは楽しそうだと思ったという。そして、学んだことを生かしてWebデザイナーになった。

彼は、いつも心が動く方を、自分の心に誠実な方を選んできたように見える。
心が求める方を選び、進んでいった結果、写真にたどり着いた。

写真にたどり着くまでに人より多く時間がかかってしまったかもしれない。けれど、彼にしかできない表現を身につけるために、必要であった過程に思える。


海外で話題に

彼は、写真を撮ることが、昔から好きだった。

結婚して、子どもが生まれたので、子どもの写真を撮るようになった。
Flickr(写真の共有をも目的としたコミュニティウェブサイト)に投稿したところ、海外の色々なところから反応があり、いつの間にか世界のクリエイティブマガジンに紹介されるようになった。

子供
海 濱田さんのflickrより 引用flickr.com

台湾をはじめ、アジア諸国で写真展を開くことにもなった。全て海外での反応が先で、日本で取り上げられるようになったのは後からのことだった。

一番反応が良かった台湾で、最初に「Haru and Mina」が発売された。

Haru and Mina表紙 Haru and Mina表紙 引用libroarte.jp

「ただ自分の子どもの写真を撮っていただけ」

彼にしてみれば、文字通りただそれだけのことだった。
写真の専門的な勉強をしてこなかったこともあり、経歴だけ見ると、なんとなくフォトグラファーになってしまったような印象を受ける。

もちろん彼の写真を見れば、フォトグラファーになるべくしてなったことは明らかなのだが、彼は、自分の評価と周りの評価の差に戸惑い、いつしか違和感を覚えるようになっていった。

「仕事ではなく、趣味でとっている」という状況が申し訳なく、時代も技術も変化していき、Webデザイナーとしても、行き詰まりを感じていた。

それならみんながいいと言ってくれる写真をやってみよう、と彼は写真の道に進んだ。


濱田英明を形作るもの

彼の写真は、人物でも物でも風景でも、ほんの一瞬だけ、そのものが垣間見せる表情を掬い取る。の写真を見る者は、その一瞬の表情に心を掴まれる。

そして、彼の写真にはいい意味で、時間の感覚がない。
過去も未来も現在も、同時に一枚の写真の中にある。
その時間を超える術を、一瞬を永遠にしてしまう術を彼は、いつ身に付けたのだろうか。

善なる光景を撮りたい

撮りたいものは、ずっと変わってはいない。

「善なる光景を撮りたい」

彼は、辛いもの、しんどいもの、不穏なもの、決定的瞬間を撮らない。
それは、真実から目を逸らしている。都合のいいところだけを見ていると言う人もいるだろう。
けれど、それは違う。この世界に辛い現実や苦しい出来事、不幸な人々がいることはもちろん知っている。

けれど、それは、撮らなくてもこの世界にあるものだから、自分が撮らなくてもいいと彼は言う。
そして、その辛いこと苦しいことだけが、真実ではない。
嬉しいことも、楽しいことも、幸せであることも、また真実なのだ。

彼の「善なる光景を撮りたい」という想いは、「色々なことはあるけれど、それでも世界は美しいし、人間は愛おしい」という善なる世界を自らの意志で選び取るという意志表明なのだと思う。

彼にとって、写真は「祈り」でもある。
そうであるから、彼は、「こうであってほしい世界」を願いを込めて撮る。


「撮る世界」と「撮らなかった世界」

写真に限らず、何かを表現しようとすると、必ずその作者の物の見方が露呈してしまう。

何を見ているか、どう見ているか。それは、同時に人としての生き方や、価値観までもが無意識に問われることになる。

写真を撮ろうとする時、意識、無意識にかかわらず、好きなもの、あるいは意味や価値があると思うものをフレームに収めようとするだろう。
依頼されて撮るにしても、被写体の中にいいと思う部分を見つけ、それを写し出そうとする。

けれど、それは、人であるのなら、その人のほんの一部に過ぎない。世界であれば、ほんの断片に過ぎない。

彼は、本当は世界の全てを写真に収めたいと願う。
「撮る世界」と「撮らなかった世界」。
シャッターを切り、目の前の風景を切り取った時点で、その境界線は生まれる。

線を引かれ、分け隔てられる。彼はいつもその境界線を越えようとしているように見える。彼は、撮らなかった世界に対して、負い目を感じている。
撮らなかったからといって、否定しているわけではないと。

あるものを撮る時点で、「撮らなかったものたち」を傷つけている。それを自覚しなければならない。

「自分の写真が誰かを傷つけることがあるかもしれない」という感覚を常に持ち、被写体に対して、「撮る」という行為に対して誠実でいることを心がけているという。

彼の写真から、フレームの外にあるものまで感じられるのは、そういった想いゆえなのかもしれない。

引用genic-web.com


子どもの写真が原点

彼の子どもを撮った写真は、日常の何気ない一コマなのに、特になんということもない光景なのに、子供っていいなあ、生きるっていいなあと思わせてくれる。

「自分の子どもの頃を思い出す」という感想も多いようだ。
人は、何かを見る時に、知らず知らずのうちに自分の中にある記憶と目の前にある風景を繋ぎ合わせて、見つめ、心を動かされる。

彼の子どもを撮った写真は、「誰の心にもきっとある風景」が多い。

子どもの頃、なんでもないものが不思議だったり、誰よりも早く走ろうとしたり、行ったことのない場所に行こうとしたり。
飛んだり跳ねたり、登ったり、寝転んだり、大人の真似をしたり、ふざけたり。

どの写真を見ても思わず笑みが漏れる。幼い頃の自分に、娘や息子に、もしかしたら孫にも重ねたりして、幸せな気持ちになる。
 
最初に「Haru and Mina」の写真を見た時、「彼が、自分の子どもの写真を撮り、出版している」という予備知識があったにもかかわらず、この写真は、彼の子どもを撮った写真ではないと思っていた。
違和感があった。

どう考えても、ハルとミナと言う名前を持った我が子を撮ったにしては、よそよそしかった。通りすがりの元気な子どもを撮影した、あるいは近所の顔見知りの子どもを撮影したと説明された方がしっくりくる。

けれど、次々と写真を見ていくと、どう考えてもプライベートな写真が多く、ハルとミナの日常生活に彼は入り込み過ぎていた。

もちろん、「Haru and Mina」に収められた写真のモデルは、紛れもなく、彼の子どもたちだった。
彼が、子どもを撮影する時に大切にしていることは、「距離感」だという。

写真を見た時に、感じた「突き放した」あるいは、「距離をとった」という感想は、いわば彼の狙い通りだった。

「10年前にこれを発見したとき、自分の写真はようやく始まったように思った。」
 
彼には、自分の写真を掴んだと確信した瞬間があった。前述の「距離感」にもつながるのだが。

生まれ育った家の勝手口で、後ろ向きに座っている息子の写真を撮ろうとした時だった。
「あれは、私だ」と彼は感じたという。

座っている息子。背後でカメラを構えている自分。

それなのに、そこに座っているのは、「私である」と彼は感じたという。
そして、さらに自分達二人を俯瞰するような目線と距離。

過去も今も未来も同時にあるような不思議な体験だったという。

息子さんの写真 息子さんの写真 引用note.com

この感覚は、もしかしたら誰しもが身に覚えがあるかもしれない。
例えば、ランドセルを背負い、母親と手を繋ぎながら、玄関に佇む。それを祖母が見送っている光景がある。

子どもの時は、子どもの目線が一つしか与えられていない。自分が親になると、子どもの目線と母親の目線のどちらも容易に持つことができる。そして、その二つの目線を持つことができれば、祖母の目線も、そんな彼らを俯瞰する目線も想像することができる。

そして、彼はこの時、「被写体との距離感」と共に、一瞬を永遠にしてしまう術、つまり「永遠性」を身につけたのだと思っている。

「この高次元の存在による目線と距離を今の私自身に再現して、写真を撮ること、その感覚をさらに写真を見る人にも置き換えていくこと、それが私の目指す表現になった。子どもを撮ることで生まれた「距離感」の考え方が全ての根幹になった。」
引用濱田英明さん note


被写体との距離感

彼が注目されたのは、自分の子どもを撮った写真だった。

それは、ややもすると個人的な写真だ。自分の子どもの写真を人に見てもらおうと思った時、越えないといけない大きな壁がある。
それは、写真にどれだけ、社会性や普遍性を持たせられるかということだという。

けれど、彼は、自分の家族を見てもらうために写真を撮っていたわけではない。

「自分の子どもの写真を通して、誰もが持っている共通の記憶とか経験をできるだけ多くの人に共有してもらいたい。僕の写真を通して、自分のことを考えてもらいたい」との思いがあった。

そのためには、距離が必要だった。
対象から離れているから、見る人が入り込めるようになる。

彼は、子どもの写真を撮るとき、「自分を消す」ことに徹しているように見える。自分が感じることよりも、写真を見る人がそこに感じる物語を大切にしたいからだ。

「写真の中に自分の存在は、見えなくていい」と彼は言う。

作品の中に作者が色濃く出過ぎてしまうと、見るものが感情移入するのが、難しくなる。
時には、作者の意図や想いを押し付けられたような気持ちになってしまうこともある。

写真に限らず、芸術作品は心を入れる器のようなものなのかもしれない。
器の中には、鑑賞する人が自由に、好きなものを入れることができる。そうであるから、同じ作品を見ても感じるものがそれぞれ異なっていたりする。

「自分が映らない距離感を探している」

彼のその言葉を聞いた時、全てが腑に落ちた気がした。

ハルとミナ
ハルとミナ

引用twitter.com


さらにその先へ

彼のポートレート写真は、子どもを撮った写真だけではなく、女性の写真も、どこか風景を撮ったように思える写真が多い。
人物と風景がほんの束の間、一体化した瞬間が掬い取られている。

人物にさりげなく入る光と影。影も濃かったり、薄かったりする。
当然、その全てが計算され尽くされているはずなのに、彼の写真は作り込まれた気配がしない。

周到に入念に準備し、最後の最後に、シャッターを切る瞬間は自分を越えるものに、自然に任せているような気がする。

そして、何を撮っていても、彼の写真は眼差しが優しい。
 
「写真は、異なるものの見方を提示することに価値を見出せる表現、それが写真の魅力だ」と彼は言う。

彼は、今日も違いを受け入れながら、優しく世界を見つめる。
この先、「映画を撮ってみたい」とある対談で彼は語っていた。

彼が撮る、優しい世界を物語として映画館で観ることができる日を今から楽しみにしている。

引用youtube.com


濱田さんの使用機材やその中古市場について

濱田さんは使用機材について、2018年のTwitterでの投稿でこう答えています。

と、このように、

  • 中判フィルム:PENTAX 67II+SMC 105mm、CONTAX 645+Planer 80mm
  • 35ミリフィルム:Canon EOS 1v+SIGMA 50mm Art
  • 35ミリDSLR:Canon EOS 5D MK IV+SIGMA 50mm Art
  • フィルム:KODAK PORTRA 400
という機材で撮影をしているそうです。(現在、またラインナップが変わっている可能性はあります)

独特の透明感のある作風は、基本的にフィルムカメラで作られているようです。

濱田さんも使用している機材の中では、本体のみでPENTAX 67II、CONTAX 645などは30万円前後、Canon EOS 1vは5〜10万円弱、Canon EOS 5D Mark IVは15〜30万円前後と、中古市場でもなかなか高く評価され、取引されているものばかりです。

レンズ、フィルムにもこだわっていて、そのどれもが濱田さんの世界観を作るのに必要不可欠なものなのではないでしょうか。

「濱田さんのような写真を撮ってみたい!」とお考えの方は、まず機材から真似してみるのも良いかもしれません。

中古カメラなどの機材は、フリマアプリ等でも購入できますが、細かい状態のチェック、メンテナンスのことなども考えると専門店からの購入がおすすめです。

また「売りたい!」と思った時にも、細かいところまで状態をチェックしてくれて的確な見積りを出してくれる、知識のある専門店がおすすめです。

お手元に使っていないカメラ関連の機材があるという方は、ぜひmeseeで専門店を探してみてください。


ここまで読んでくださった方へ

ここまで読んで下さりありがとうございました。

今回は、人の心を掴む数々の作品を作り続けてきた写真家の、濱田英明さんについてご紹介させていただきました。


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