このマガジンでは「リユースをもっと楽しむ」をコンセプトに、色々なカルチャーを「リユース」の視点から楽しめる情報を発信しています。
今回ご紹介するのは、日本を代表する映画監督の一人、深作欣二さんについてです。
バイオレンスな表現を含んだ生々しい表現に定評のある映画監督で、数々の名作を生み出してきた深作欣二さん。
その人となりを掘り下げていきたいと思います。
今回は、
という形でご紹介していきます。ぜひご覧ください。
深作欣二とは?
深作欣二さん 引用nikkan-gendai.com深作欣二さんは、日本を代表する映画監督の1人です。
生涯で60を超える映画を手掛け、ヒット作は多数に上ります。
斬新な撮影方法や演出で、映画界で不動の地位を確立してきました。
アクション映画やヤクザ映画での印象が強いものの、時代劇やSF、ホラーなどの様々なジャンルで幅広く活躍しました。
その活動は映画だけにとどまらず、テレビドラマやドキュメンタリー、演劇、朗読劇と多岐にわたっています。
わずかながらも俳優としての出演経験があり、晩年にはゲームソフトの監督・演技指導を務めています。
愛称は「サク」さん。
熱き、映画人
深作欣二さんといえば、戦後の混沌としたヤクザ世界を「実録」という視点でダイナミックに表現した事で知られています。
『仁義なき闘い』シリーズでは、大ヒットを記録しました。
仁義なき戦い 広島死闘篇より 引用skyperfectv.co.jp
「暴力」をテーマに、型にはまるのを嫌い、最後まで反骨精神を原動力として、映画ならではの面白さを追及。
大胆な歴史改変で、時代劇映画の復活にも尽力しています。
荒唐無稽な話にもリアリティーを求め、端役にも細やかな演技指導をするなど、映画にかける情熱は凄まじいものがありました。
まさに、熱き映画人です。
一方で皆でワイワイ言い合い、楽しみながら映画を作ることを意識していたそう。
現場での雰囲気を大切にしていたんですね。
深作さん曰く、映画というものは、
「ひとつの夢まぼろしの殿堂のようなもの」だそうです。
(2019年9月28日放送『NHK映像ファイル あの人に会いたい「深作欣二(映画監督)」』NHK より引用)
名監督からの賞賛
日本では『キル・ビル 』などで知られる、アメリカの映画監督クエンティン・タランティーノは深作さんを崇拝していました。
クエンティン・タランティーノ監督 引用elle.comなんでも深作さんとタランティーノ監督、俳優の千葉真一さんで、映画の構想を練っていたこともあったとか。
深作さんが逝去後に封切りとなった『キル・ビル Vol.1』(03)の日本公開版のオープニングでは、同作を深作欣二へ捧ぐ旨のテロップが流れました。
『ミッション:インポッシブル2』(00)、『レッドクリフ』などでメガホンを執った、香港の映画監督ジョン・ウーも深作作品をこよなく愛しているといいます。
映画監督になるまで
ここでは、そんな深作さんが映画監督になるまでの足跡を振り返ります。
1930年7月3日に茨城県水戸市で誕生。中学生の時に敗戦を経験。
その後、頻繁に映画館に通うようになり、映画に魅了されていきます。
1930年頃、浅草の映画館(参考) 引用screenonline.jp
そして、映画を学ぶことを決意し、日本大学芸術学部に進学。卒業後の53年に東映に入社します。
当然ですが、すぐには監督になれません。
助監督として17人の監督の下で、50作品に携わります。
いわゆる修業時代ですね。
61年、『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で念願の監督デビュー。
千葉真一さんも同作で映画初主演を果たします。
この作品は、千葉さんとタッグを組むきっかけとなった作品でもあります。
以降、なんと17もの作品で深作・千葉コンビが組まれ、数々のヒット作を生み出しています。
よほど相性が良かったんでしょうね。
ちなみに、プライベートでは、65年に女優の中原早苗さんと結婚。
72年には、長男健太さんが誕生しています。
健太という名は、2人の俳優の名から1字ずつ取って名付けられたそうです。
誰だかわかりますか?
正解は、「高倉健」さんと「菅原文太」さんです。
なお、73年から『仁義なき戦い』シリーズが始まり、以降快進撃が続くのです。
受賞歴
快進撃と表現しましたが、ここで数々の受賞歴を紹介していきますので、その凄さをぜひ実感してください。
キネマ旬報ベストテンでは、73年の『仁義なき戦い』が2位にランクイン。
後に『蒲田行進曲』(82)で1位を獲得します。
『仁義なき戦い』は、同誌が09年に発表した「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」でも歴代5位に選ばれています。
73年度の第11回ゴールデンアロー賞の映画賞に深作欣二、菅原文太の両名が選出。
ブルーリボン賞では、『化石』(75)、『蒲田行進曲』(82)、『バトルロワイヤル』(00)の3作品で作品賞(化石、蒲田行進曲では監督賞も受賞)に輝いています。
日本アカデミー賞では『蒲田行進曲』(82)、『火宅の人』(86)、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(94)の3作品で最優秀作品賞や最優秀監督賞などを獲得しています。
名だたる監督がいる中でのこの受賞歴は、“圧巻”の一言に尽きます。
さらに、97年にはその優れた業績が認められ、紫綬褒章受章を、逝去後の03年には映画などでの数々の功績が認められ、勲四等旭日小綬章を授与されています。
次に、代表的な作品などを紹介します。
代表作
『仁義なき戦い』シリーズ
引用amazon.co.jp映画監督・深作欣二を一躍時代の寵児に押し上げた大ヒット映画です。
この作品なくして深作映画は語れません。シリーズ通しての主演は名優、菅原文太。
73年の『仁義なき戦い』公開後、広島死闘篇(73)、代理戦争(73)、頂上決戦(74)、完結篇(74)と立て続けに封切られ、瞬く間に記録的大ヒット。もはや社会現象に。
やはり、この映画が他の任侠映画と一線を画していたのは、全うな任侠道を貫くヒーローが不在なところ。
それまでの虚構性の強かった任侠映画をなぞらず、実話小説を基に脚本を作り、実録路線でワルが過激な暴力描写で描かれている点が、当時は非常に斬新でした。
物語の舞台は広島で、全篇セリフは広島弁。方言特有の味があって、迫力も満点。手持ちカメラでの荒々しい映像も効果的で、臨場感があってリズミカル。
ゴールデンウィーク初日に封切られた第2弾では、都内の映画館で客が溢れかえり、扉が閉まらなかったとか。
とにかく、スゴかった。
まさしく、深作映画の真髄「ここにアリ」です。
百聞は一見に如かず。
興味のある方は、ぜひ一度ご覧になってください。
『バトル・ロワイアル』
引用amazon.co.jp2000年に公開された映画ですが、暴力的かつ刺激的な内容なのでR⁻15に指定されています。
出演は藤原竜也、ビートたけしなど、豪華な顔ぶれ。
当時、少年犯罪が社会的に注目を集めていました。
本作が、中学生同士の殺し合いという内容の原作を基に映画化されたため、青少年への影響が懸念されることに。
ある衆議院議員が映画公開前に、国会で文部大臣に政府としての映画に対する見解を質問する事態にまで発展。
逆に、これが話題を呼び、映画の興行収入が30億円超えのヒット作に。
バイオレンス映画の巨匠は、御年70になっても健在でした。
数々の名作映画が誕生
『柳生一族の陰謀』(78)
萬屋錦之介、千葉真一ら豪華キャストを揃え、興行収入30億円の大ヒット作。
深作監督初の時代劇映画挑戦にして、その復興に成功。
『復活の日』(80)
アメリカや南極大陸での長期間にわたる海外ロケを敢行。
25億円ともいわれる巨額な製作費をかけたSF大作。主演は草刈正雄。
『魔界転生』(81)
伝奇小説を基にした時代劇作品。主演は千葉真一、沢田研二。
海外でも公開され、85年公開の台湾で当時の映画興行記録を塗り替える大ヒット。
『蒲田行進曲』(82)
つかこうへいさんの戯曲を基にした、人情喜劇。
出演は松坂慶子、風間杜夫、平田満など。映画賞を多数受賞。
『火宅の人』(86)
檀一雄のベストセラー小説を基にした文芸作。
出演は、緒形拳、いしだあゆみ他。
『いつかギラギラする日』(92)
壮大なスケールのアクション映画。萩原健一らが出演。
当初の予算3億円を遥かに超える11億円をかけ制作。
遺作
病気により監督としては1シーンしか撮れませんでしたが、作品に携わったという意味では『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』(03)が遺作です。
2002年9月25日に企画発表会見が行われ、深作さんが癌である事や、本作が彼にとって最後の作品となる事が発表されます。
本映画は深作さんの死後、公開されています。
なお、ここまで紹介したのは、あくまで深作作品のごく一部です。
もちろん、他にも多数の名作がありますのでぜひ調べてみてくださいね。
深作欣二を形づくるもの
稀代の名監督を形づくるものは、一体何だったのでしょうか?
ここからは、多角的に深作欣二さんを掘り下げていきます。
幼少期
1930年代 水戸市の風景(参考) 引用mito-ibaraki.mypl.netまず、どんな幼少期を過ごしていたのか、みていきます。
深作さんは、1930年に茨城県の水戸市郊外の地主の家に誕生します。
お父さんは東京大学で農業を学び、農業技師をしていたそうです。
深作少年は、家ではよく読書をして過ごしていたとか。
また、戦時中は人手不足で、両親を手伝って百姓仕事をした経験もあるようです。
そして、後に色々なメディアで語られる衝撃体験は、15歳の時に起こります。
1945年より深作少年は兵器工場での勤労動員に狩りだされていたのですが、ある夜、そこが艦砲射撃に見舞われます。
幸い、その際中学生達はすでに帰宅していたので、彼は難を逃れたわけです。
翌日、現場に行くと、工場は廃墟同然に。そこで、夜間作業のため逃げ遅れた20人余りの工員の亡骸が、無残な姿で残されているのを目撃します。
彼は、散り散りになった胴体や首、手足、内臓などを拾い集め、仮設の火葬場に運んだのです。
少し前まで、一緒に働いていた人達が、一瞬にしてあっけなく死んでしまうのは、まさに衝撃だったに違いありません。
多感な時期でのそうした経験が、後に影響を及ぼすことになります。
深作さんの表現者としての内部にある核が「死」であり、その「死者たち」だったのです。
そのすぐあとの敗戦で世の中の価値観が大きく変わったことも含め、これらの15歳の経験が映画作りの原点となりました。
映画監督を志したきっかけ
戦後、バラックの映画館が建ち、深作少年は映画の虜に。
黒澤明監督のデビュー作『姿三四郎』(1943)を観たあたりから、映画の昂揚に目覚めたそう。
姿三四郎 引用wikipedia.org戦時中には観られなかった西洋映画にも、心躍らせていたようです。
中学3年の後半には闇市をふらつくようになり、映画の世界へドップリ浸かります。
そして、高校3年の時、黒澤明監督の『酔いどれ天使』(1948)を観た頃に、映画監督を志すようになりました。また、フランス映画の影響も大きかったようです。
酔いどれ天使 引用wikipedia.org両親は農業をしてほしかったようですが、彼は一念発起、日本大学芸術学部映画学科に進学し、映画監督への道を歩みます。
映画への情熱
映画大好き少年が、東映へ入社後、みごと夢を実現させ、映画監督に。
そんな夢を掴んだ彼の映画への“情熱”に焦点を当てていきます。
深作組
現場での姿 引用prtimes.jp深作監督の映画制作チームは、「深作組」と呼ばれています。
入念なテストやリハーサルをするため撮影時間が長くかかり、毎日のように作業は深夜にまで及ぶことに。
いつしか、それは“深”夜まで“作”業をするチームの略だと誰かが言う程でした。
熱心に打ち込んだのが、よくわかるエピソードですね。
きっと、1シーンでも妥協したくなかったのでしょう。
そんな厳しい現場でも、スタッフは監督についてきてくれました。そこには、当然彼の人柄があったからこそ。
現場の雰囲気を大事にし、気遣い、気配りが出来る人だったからこそ、スタッフは、彼を支え、俳優は期待に応えようと必死になるのです。
なお、撮影後は、よく役者を引き連れ、飲みに行ったそう。
現場で動き回った後なのですが、それだけエネルギッシュな方だったんでしょう。
日本一の斬られ役とのエピソード
福本清三さんは大部屋俳優(いわゆる端役)として、時代劇や現代劇で、斬られ役、殺され役を多数演じました。
福本清三さん 引用natalie.mu
彼は自身の著書で、『仁義なき戦い』で初めて一緒に仕事をした深作さんとのことを回想しています。
「とにかくキツイ監督でしたわ。(中略)テストばっかりで、なかなか本番になり まへんのや。えげつないくらい、テストを繰り返すんです。(後略)」
(『どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の斬られ役・福本清三』福本清三・小田豊二著(2001年、創美社) 212頁より引用)
それまで何度もやってきた立ち回り。ヤクザの抗争での動きは既にわかっていたのです。
なぜ、スターにはあまり何も言わず、端役ばかり入念に演技指導したり、時間をかけてテストするんだろう? との疑問を抱きます。
ある時、そんな疑問を深作さんにぶつけたそうです。
すると、主役には台本があるからそれなりの芝居をするが、端役は台本が渡ってないから、内容を知らない、だから教えるんだ、と深作さん。更に続けます。
「いいか、フクちゃん、映画のスクリーンっていうのは、主役だけが主役じゃないんだよ。このスクリーンのなかに映ってる皆が主役なんだ。(後略)」
(同前 215頁より引用)
スターがどれだけ一生懸命やっても、そのスクリーンの片隅にいる役者が遊んでいたら、その絵は死んでしまうのだそう。
だから、同じ子分でも、それぞれ個性を出して死んでほしいから、うるさいくらい指示を出す、とのこと。
これらの言葉をきっかけに、福本さんは、一生懸命与えられた役をやっていれば、誰かがきっとどこかで見ていてくれる、と思うようになったそうです。
深作さんの映画作りに対する情熱が、端役であった彼の芝居への向き合い方の転機となったのです。
その努力が実ってか、福本さんは『ラストサムライ』(03)でハリウッド映画出演を果たすことになるのです。
(左)ラストサムライでの福本清三さん 引用dailyshincho.jp誰かがどこかで、芝居に真摯に向き合う彼を見ていたのかもしれませんね。
また、初めて仕事をする監督から、「フクちゃん」と名前で呼ばれたことにも驚いたといいます。
大部屋役者の最初の目標が、名前を覚えてもらうことだそうで、オイ、そこ、で監督から呼ばれるのが常。
深作監督は、撮影前に大部屋役者の名前と顔、死に方の癖まで覚えてきたとか。
彼はまた役者を呼び捨てにはしなかったそうです。
皆、彼についていくのがわかるような気がしませんか?
役者・関係者から見た深作欣二
仕事柄、多くの俳優や映画関係者と交流のあった深作さん。
ここでは彼と交流のあった人物から見えてくる深作欣二像を紹介します。
千葉真一
千葉真一さん 引用asahi.com千葉真一さんは世界的な名俳優で、深作作品にも多数出演しました。
プライベートでも交流があり、深作さんが千葉さんの自宅に泊まることもあったほどです。
千葉さんは色んな媒体で、深作さんのことを楽しそうに語っています。
彼がキンジ・フカサクと呼ぶのは、世界的映画監督との敬意が込められています。
そんな千葉さんから見た深作さんを端的に表しているのが、次の言葉。
「撮影現場が大好きな人でした。(中略)本当に映画が好きな人でしたね。」
(『深作欣二 現場を生きた、仁義なき映画人生』春日太一責任編集 2021年 河出書房新社 29頁より引用)
1シーンに何時間もかけるのも、時に役者に厳しい檄を飛ばすのも、予算オーバーしてしまうのも、頷けます。
きっと、大好きなことに妥協せず、夢中になって取り組んでいたんですね。
また、深作映画に出ることは、
「(前略)男優の夢でした。」と千葉さんは語っています。
(『映画主義者 深作欣二』立松和平著 2003年 文藝春秋 75頁より引用)
藤原竜也
藤原竜也さん 引用oricon.co.jp『バトル・ロワイアル』で主演に抜擢され、現在も映画・テレビ・舞台等で活躍。
同映画での深作さんとの撮影中を
「(前略)夢のような時間なんです。」と話し、
(『映画主義者 深作欣二』立松和平著 2003年 文藝春秋 218頁より引用)
「おかしなくらい幸せな現場です。」とも表現しています。
(同前 219頁より引用)
藤原さんは深作さんとの出会いによって、貴重な経験をされたようですね。
また、同作に出演した俳優の柴咲コウさんも、後年のラジオ番組で、女優や歌手活動を通じて影響を受けた人として、真っ先に名を挙げたのが深作欣二さんでした。
「芝居と向き合うのに必要な情熱を教えてくれた人物」だと述べています。
(J-WAVE NEWS https://news.j-wave.co.jp/2014/08/post-809.htmlより引用)
奥山和由
奥山和由さん 引用maidonanews.jp映画プロデューサー、映画監督。
2018年の京都映画祭でのトークイベントにおいて、深作監督がいたから映画界に入ったという奥山さん。続けて、その人物像を語っています。
「滅茶苦茶なことを強要するが、自分でも努力する人。何と言っても、とにかくいい男だった。女優にモテた。色っぽかったし、男に最後は優しかった。」
(『[映画.com ニュース 2018年10月13日』https://eiga.com/news/20181013/13/より引用)
深作さんのカッコよさが、よく伝わる言葉ですね。
他にもたくさんの俳優や仕事関係者に影響を与えたことは想像に難くありません。
父としての顔
妻・中原早苗さんと息子の健太さんと 引用asahi.com深作さんは、家ではどんな風だったのでしょうか?
息子の健太さんによると、彼が子供の頃は忙しかったのか、お父さんはほとんど家にいなかったそう。
でも、たまに家に帰ってくると、昔の面白い映画を薦めてくれていたようです。
また、小さい頃に、何度か撮影現場に遊びに行ったこともあるのだとか。
大人になってからは、一番の飲み友達だったようです。
親子仲は、とても良かったんですね。
多くの人が哀悼
闘病の末、2003年1月12日、深作さんは72歳でその生涯を終えます。
臨終の際には、家族に囲まれ、菅原文太さん 、渡瀬恒彦さん、藤原竜也さんらも駆けつけました。
3日後の15日の通夜にも有名な俳優や映画関係者等が多数参列します。
ビートたけしさん、梅宮辰夫さん、津川雅彦さん、渡哲也さん、三田佳子さん、柴咲子コウさん、安藤政信さんなどなど。
映画監督の山田洋二さん、崔洋一さんらも参列します。
翌16日の葬儀・告別式では、ロサンゼルスから駆けつけていた千葉真一さん、仁義なき戦いで主演をつとめた菅原文太さんが、弔辞を読みます。
なお、深作さんはフリーになっていたものの、以前所属していた東映が葬儀で全面的にサポートしてくれたそうです。
多くの方々から惜しまれつつ、映画界の巨匠・深作欣二は天国へと旅立ちます。
その後
深作さんの死後について、最後に触れます。
息子へのバトン
深作健太さん 引用moviewalker.jp深作さんの長男健太さんは映画監督・演出家・脚本家をしています。
『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』でお父さんの後を引き継ぎ完成させたのが、実は息子の健太さんだったのです。
彼にとっては、それが監督デビュー作になります。
同作で親子の2人が監督としてクレジットされています。
この作品を通して、父から子へのバトンが渡されたという形になりました。
去りゆく銀幕スターたち
深作さんとゆかりのある銀幕スターも1人、また1人とこの世を去っていきました。
2014年に高倉健さん、菅原文太さん、17年には松方弘樹さん、渡瀬恒彦さん、19年に梅宮辰夫さん、21年には千葉真一さんが旅立ちました。
映画の名監督らもまた然りです。
なお、奥様の早苗さんも12年に亡くなっています。
天国でみんないっしょに、深作さんとお酒でも飲みながら、映画談義や昔話に花を咲かせている事でしょう。
最後に
東映直営の映画館である渋谷TOEIが、2022年12月に69年の歴史に幕を下ろしました。
そのラストの特別上映の1つに選ばれたのが、『バトル・ロワイアル』です。
現在も、多くの方々にその作品が愛されているのです。
人の命には限りがありますが、映画に寿命はありません。
異彩を放つ深作映画の数々は、今なお色褪せず、凛として生き続けています。
熱い魂が込められた作品は、これからも燦然と輝き続けることでしょう。
参考文献
『映画主義者 深作欣二』立松和平著 2003年 文藝春秋
『映画監督 深 作 欣 二』深作欣二、山根貞男著 2003年 ワイズ出版
『深作欣二 現場を生きた、仁義なき映画人生』春日太一責任編集 2021年 河出書房新社
『どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の斬られ役・福本清三』福本清三・小田豊二著 2001年 創美社
深作監督作品の中古相場について
ここまで深作欣二さんとはどのような人なのか?について話してきました。監督の過去の名作DVD、Blu-rayなど、映像作品は中古市場でも多く取引されており、多くの人が監督の作品を楽しんでいます。
特に仁義なき戦いのDVD、Blu-rayボックスセットなどは人気の品で、初回生産の限定版などは高い金額で取引されています。
映画パンフレットなども中古市場では人気で、DVDやBlu-rayに比べると取引額は安くはなりますが、古い作品の当時のパンフレットなどが盛んに取引されているようです。
パンフレット系でいえば監督直筆のサインなどが入ったものは比較的高額で取引されています。
故人という事もあり、直筆サインはもう手に入らないのでファンとしてはやはり心惹かれるものがありますよね。
作品の新旧を問わず、深作監督の作品は中古市場でもいまだに強く愛されているようです。
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んで下さりありがとうございました。
バイオレンスな作品で知られる深作欣二監督。
その作風とはうらはらに、現場で端役の俳優にも気を配り、皆に愛される、独自の哲学を貫いた人だったようです。
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